「上海36人圧死事件はなぜ起きたのか」 加藤隆則(著)

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中国で事故や災害が起きても、犠牲者は見捨てられ、真相は隠される。それはなぜなのか。それは中国社会の何を示しているのか。中国を深く知る、読売新聞編集委員を務めた方のレポートです。

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対象読者層

中国社会に関心がある人。

 

要約

・2015年1月1日、上海の観光名所、外灘(バンド)で雑踏のなか36人が圧死するという惨事が起きた。しかし事件への関心は、時間の経過とともに急速に薄れていった。ビルからドル札に似たクーポン券が撒かれたため、事故が起きたという解説が流布した。だが、事実は異なる。

・犠牲者36人の、それぞれ個別の背景。
36人のうち、地方出身者(外地人)が27人。ほとんどが10~20代で、若い年齢層。上海の戸籍を持てない地方出身の貧しい若者が多い。学歴、職、人脈などで上海人より不利な立場にあり、都会にあって孤独を感じやすい。低い水準の給料から、実家の両親など家族へ仕送りしている。仕事に忙しく、消費を楽しむお金はなく、上海に帰属意識を持てない若者たちが、無料で上海の良い思い出がつくれると、カウントダウンイベントに集まったのも理解できるだろう。

・前年まで行われていた外灘のイベントは、2015年は行われていない。しかし、イベント中止の告知は不十分だった。イベントは上海市のブランド力を上げようと、市政府が後援してきたが、2015年は場所を移して、小規模に予定されていた。
市政府としては、毎年のイベントに箔をつけるため、2015年も楽しいイベントがあるかのごとく報道していた。だが実際は、関係者2000人ほどに限定されたイベントに変わっていた。チケットがなければイベント会場には入れず、一般大衆はチケットを手に入れる手段はない。そのような詳細は報道されていなかった。
また野次馬根性の強い国民性、携帯端末を通じた(誤った)イベント情報の拡散も原因となった。ネットによる情報の伝播は、習近平も世論操作の面から非常に重視している。

・例年なされていた交通規制や、地下鉄駅の閉鎖は行われなかった。関係者限定のイベント警備は厳重だったが、外灘の警備人員は少なかった。イベント縮小化の背景には、習近平指導部の反腐敗運動がある。何か行動すると批判される可能性があるので、今は官僚にリスクを避けたがる風潮がある。腐敗の摘発は、政治闘争として行われている。

・現場では、一般人の危険回避の行動や救助などの美談があった。しかし市政府の責任は、現場の区政府担当者に限定され、それ以上メディアで追及されることもなかった。報道は制限され、犠牲は地方出身者が多かったので公的な追悼行事も行われなかった。国家指導者の面子に関わる事案では、責任追及や原因の報道がなされることはない。事故に際し、教訓を汲み取るよりは政治的利益が優先される。

・犠牲者の遺族が抗議したり陳情したりするのを防ぐため、公安が遺族を監視する。司法も党の指導下にあり、行政の責任を司法で明らかにすることも不可能だ。習近平は、公安部門の責任者だった周永康を粛清している。周永康時代より治安が悪化することは許されず、外灘圧死事故もなかったことのように黙殺された。江沢民、胡錦濤、習近平の最高指導者たちは、反腐敗運動の摘発範囲などで、一定の取引があると思われる。

・習近平は大国を意識し、ソフトパワーを高めることに力を入れている。世界で存在感を増し、国際的なルール作りにも参画しようとしている。だが現在の党の正当性は、軍事力により建国した歴史と、大きくなった経済力という、ハードパワーに頼っている。ソフトパワーには、公平性、開放性、透明性が必要である。習近平の掲げる「中国の夢」は、国家が個人に優先されており、公平性や透明性を欠く。

・死傷者が出る雑踏の転倒事故は繰り返され、そのたびに公衆道徳の向上が叫ばれる。中国人の行動原理は、制度やルールを守ることではなく、複雑な人間関係や面子にある。自律した個人の権利と責任を尊重する社会でなければ、公共心は広がらないだろう。しかし習近平は、国民が成熟した主体的な公民になることを望んでいない。

・経済大国化した自信、西洋文化が浸透することへの反発、格差という社会不安の増大から、伝統(儒教など)に回帰する動きもみられる。腐敗の蔓延は当初、西洋資本主義の悪弊のためとみなされたが、最近は中国の政治体制に原因があるとの認識も生じてきた。そのため、ますます中国独自の優越性を強調せざるをえない。
中国共産党では、政治体制が動揺する時期に「敵対勢力」のレッテル貼りが行われやすい。習近平体制では、「敵対勢力」への言及が増えている。

・歴史的に上海は、日本と交流の深い都市である。最近は訪日観光の中国人が増えるのに対し、上海を訪れる日本人は減っている。上海駐在の日本人の仕事も、中国の低賃金労働力を目的とした投資から、中国市場を相手にしたビジネスへと変わってきている。中国は各地方で大きな差異があるので、その多様性を理解することが重要である。

・2015年3月、全人代での李克強首相の活動報告。事前原稿にはない、習近平の方針に沿った文言が加えられた。その直前、李克強と習近平が会話を交わした。権力が習近平に集中していることは明白だ。メディアを使い、強い指導者かつ庶民派というイメージ構築に余念がない。
習は毛沢東の手法をまね、党と国家の統治体制を死守しようとしている。中国の国家指導者の任期は10年だが、習の長期政権説も囁かれている。その前哨戦として、盟友である常務委員の王岐山が、定年の慣行を破り常務委員を続けるかに注目が集まっている。
反腐敗運動は経済の停滞を招き、恨みを買い敵も増やす。その対策のひとつが国威発揚だが、社会問題の解決にはならないし、台頭してきた中間層にはあまり効果がない。

 

書評

前回、「習近平の権力闘争」を紹介しましたが、今回も現代中国事情の本です。こちらも非常に興味深い内容です。私は読売新聞を読んでいないので著者のことは知らなかったのですが、著者の序文から引き込まれました。

36人圧死事件について、「中国は人が多いし、事故も頻発するのでよくあることだ」程度の関心しか持たれないのではないか、と危惧しています。この惨事に、表向き心を痛めているといったポーズをとらず、いきなり直球勝負で来ることに感心しました。

上海在住の日本人ですら、クーポン券原因説をそのまま信じ、何の疑問も興味も持たないことに、著者は懸念を表明します。インターネットを洪水のように情報が流れるなか、本当のことに関心を持たない。日本人は、中国への関心や理解力を失いつつあるのではないか、と。高杉晋作が幕末に上海を訪れて以来、戦前戦中に、数多くの知識人や文人が上海を訪れています。現在は羽田から3時間ですが、戦前ほどにも中国を理解できていないのではないか。序文にある著者の危機意識の高さで、ぐっと引きつけられました。ひとつひとつの小さな事象を分析することで、うしろに中国の政治が浮かんできます。

私もこの事故について、そんなこともあったな、としか記憶していませんでした。原因にも関心はなく、本書をきっかけに、クーポン券がどうとか言っていたな、と思い出した程度です。実際には、例年とイベントの形式が変わったこと、交通規制や警備がなかったこと、などは習近平指導部の反腐敗(倹約)運動の影響を受けていました。偶発的に見える事故にも、国家の政治方針が関係していることが印象深いです。

「習近平の権力闘争」にも書かれているのですが、習近平は通例の10年を超えて、長期政権を狙っているという説があります。私は、これから中国経済はかなり停滞すると考えています。権力闘争の内実はわかりません。ですが、今までのように高成長で社会の矛盾を隠せないときに、習近平が権力を維持できるのか。けっこう危ういことが起こる予感もします。嫌中の雰囲気があっても、中国のことは横目で見ておこうと思います。
(書評2015/10/01)

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