「(日本人)」 橘玲(著)

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東日本大震災(福島第一原発事故)で起きたことは、日本人の何を表しているのか。和を尊ぶといった典型的な日本人論ではない、世俗性から見た日本人論です。

おすすめ

★★★★★★★☆☆☆

 

対象読者層

日本もしくは日本人について考えたい人。

 

要約

・東日本大震災において「日本人」について多く語られたが、それはひとことで言えば「苦境に耐え互いに支えあう美しい日本人」か「責任を逃れ利権に執着し権力にしがみつく醜い日本人」であった。だがこのような単純な構図は無意味である。
日本人は自身を特別と考えるが、何が特別なのか客観視するのは難しい。本書では、私たちからヒトとしての本性を引き算して残ったなにものかを、「日本人性」として考察する。

・世界各国の人々の価値観を比較したとき、日本が特異な結果を示した3つの特徴がある。国のために戦う意欲が低いこと、日本国民であることに誇りを感じる比率が低いこと、そして権威や権力を圧倒的に嫌っていることである。
グローバル化した世界では、国にできることはそれほどないのだが、私たちは「国家」や「国民」を強く意識しすぎている。本書のタイトルは日本人を括弧に入れたものだ。日本人を括弧に入れ、「国家」や「国民」という既存の枠組みから離れて、社会を理解すべきときだ。

・福島第一原発事故の記者会見において、原子力安全・保安院の審議官や東電職員が何度もほほえみを浮かべる場面があった。しかし、これは奇妙なことではない。ほほえみの国と呼ばれるタイでは、ほほえみに多くの意味付けがあり、ほほえみによって多様なコミュニケーションがなされる。
タイ社会でも、空気を読む、遠慮、気遣い、対立を避ける妥協、人脈、義理や恩義、面子などは極めて重要である。権限は地位や職階になく、個人の属性である(だから誰も責任をとらなくなる)。
私たちは「和」や「恥」や「建前と本音」といった特徴を、日本人特有のものと考えてきたが、これはアジアの農村社会ではありふれたものである。私たちがこれまで「日本的」と考えてきたことは、アジア世界では共通なものではないか。

社会には政治空間と貨幣空間が存在する。
政治空間は、愛情空間(家族・恋人)と友情空間(親しい友人および知り合い)からなり、その外側に貨幣空間(他人)がある。貨幣空間はお金でつながる無制限の範囲である。
人間関係において、最も重要で中心にあるのが愛情空間で、その次に重要なのが友情空間となる。人間関係では貨幣空間はとるにたらない。地理的関係では、愛情空間は非常に狭く、それを友情空間が取り囲んでいる。貨幣空間は広大である。

政治空間と貨幣空間ではルールが異なる。
政治空間のルールは統治の倫理であり、貨幣空間のルールは市場の倫理である。
統治の倫理では、目的のために欺く、復讐、排他的、規律、伝統、位階、忠誠、勇敢、名誉、運命を甘受する、といった行動規範が生まれる。
市場の倫理では、正直、契約の尊重、他者との協力、勤勉、節約、効率性、新規性、競争するが暴力は排除する、といった規範がみられる。

統治の倫理は生物の進化とともに40億年かけて刷り込まれた本能だが、市場の倫理は学習して身につけるたかだか5千年の文化だ。市場の倫理は人間の本能と対立し、交易によって市場全体の富が増えるという古典経済学はほとんどの人に理解されない。グローバル化は世界全体を豊かにする(南北格差の解消に向かう)が、国の中での格差は拡大させる。人間は自分が相対的に貧しくなることに耐えられない。
国の中で相対的に貧しくなること、また貨幣空間のドライな関係性が政治空間を侵食し孤独を感じること、これらの不満と不安に対抗するため、復古的な統治の倫理を持ち出そうとする人も現れる(藤原正彦「国家の品格」)。

エドワード・サイードは「オリエンタリズム」で、西洋人が自身を規定するために幻想としての東洋人をつくりだしたこと、また東洋人が幻想であるオリエンタリズムを通して自分たちを東洋人として認識するようになったことを明らかにした。これは近代化の過程にあった日本にも当てはまる(新渡戸稲造の「武士道」、ルース・ベネディクトの「菊と刀」)。その後も日本人の特殊性のイメージは、「甘えの構造」や「タテ社会の人間関係」などで強化されてきた。
明治期、西洋列強の帝国主義に対抗するため、「日本」文化を強調する人々がいた。西洋のオリエンタリズムにより武士道が創造されたが、(自分たちがつくり出した幻の)武士道によって西洋(市場原理主義)に対抗せよと(「国家の品格」のように)主張する人々がいる。明治維新以降ずっと、日本人は西洋の近代主義に対抗する思想を持ち得なかった。

・生物は進化の過程で、原因と結果を結び付ける因果律を身につけた。(物音がする→敵が来る、隠れろ!)人間の脳は因果律で理解する。
しかし世界の基本法則は複雑系であり、一部が確率論で記述され、さらにその一部が因果律で理解される。人間は複雑系や確率論の世界を理解できない。

・進化論的には、愛は生殖のためにつくられた感情である。進化論での最適戦略は、男は乱交(相手は多いほどよい)であり、女は純愛(子育てがあるのでパートナーを選ぶ)となる。
生き残り(自分の遺伝子を残す)戦略の結果、感情がつくられたり、生殖能力を最大化するような性質が生まれた。(老化や死を回避するより、若い生殖可能な時期を優先する。)

・ヒトには、幼少時に親しく接した異性との性交を生理的に嫌悪するプログラムがある(近親相姦の禁忌)。また旧石器時代より、女性は他の集団から奪うか交換するかしかなかった。
交換の互酬、そして女性を奪うための戦争やカニバリズムは人間の本能である(類人猿の観察や伝統的社会の食人の習慣)。ヒトは社会的な動物で、集団(俺たち)への帰属意識を持ち、外部(奴ら)を設定して戦い、資源を奪うようにプログラムされている。

・進化心理学によれば、こころはシミュレーション装置である。自分が相手の立場に立つことで相手の行動が予測できるようになり、集団内で生き残れる。この相手の立場を想像することが拡張され、アニミズムとなり、神が生み出された
全ての血縁集団が独自の神をもつようになったが、近代以前では超自然的な存在は、人々にとって実在した。(集団の全員が信じる共同幻想は現実化する。)

・ジャレド・ダイアモンドは「銃・病原菌・鉄」で、歴史や文明は地理的な初期条件の違いから生まれたとの仮説を立てた。ユーラシア大陸の温帯ベルトで農耕というイノベーションが起こり、農耕文明が発達した。
農耕文明の社会には、土地への執着(縄張り意識)と退出不可能性という特色がある。農耕社会では土地を守るので、閉鎖的な社会となる。また退出不可能な共同体の関係性は未来まで続くので、政治システムは妥協による全員一致になる。
退出可能性がない閉鎖社会では、身分が固定化し、また進歩という概念はみられない。これまで「日本人の特徴」と考えられてきたものは、人間の本性と農耕社会の特性としてほとんど説明できる。

・デフォルト戦略として、日本人はリスク回避的であり、アメリカ人は自己主張的である。
日本人は曖昧な状況ではリスク回避的な選択をするが、何をしてもよいとわかれば自己主張的な選択をする。アメリカ人は曖昧な状況では自己主張をするが、周囲への配慮が必要な状況ではリスク回避的となる。これは社会環境の違いが原因で、日本人は目立つとロクなことがないが、アメリカ人は自己主張しないと存在できないからである。
このようなデフォルト戦略は、日本人に特有なものだろうか。多くの心理学実験によれば、西洋人は分類学的規則の認識が得意で、東洋人(日本人・韓国人・中国人)は部分と全体の関係性や意味の共通性の認識が得意だった。西洋人の認知構造が世界を個に分類するものなのに対し、東洋人は世界をさまざまな出来事の関係として認識する。なお、この違いは遺伝によるものではなく文化的なものである。西洋人は個や論理を重視し、東洋人は集団や人間関係を重視する、と言える。

・1945年9月マッカーサーと昭和天皇が会見して以降、続々とGHQ宛に「拝啓マッカーサー元帥様」と書かれた手紙が日本国民から送られてきた。その数は50万通にも及ぶ。
山本七平の「空気の研究」は、実は「水=通常性の研究」と「日本的根本主義について」からなる三部作だった。ここでは山本七平とは異なる「水」を考える。
アメリカの政治学者ロナルド・イングルハートの各国民価値観調査によれば、日本人は極めて世俗的であり、自己表現志向もやや高めである。また、日本人はアメリカ・中国・韓国人と比較して、世間や家族の期待に応えようとする意欲は低く、自分の好きなことをしたいという個人主義的傾向を示す
戦前と戦後で日本人が変わったという考え方もあるが(岸田秀「ものぐさ精神分析」)、日本人は一貫して世俗的だったと考えるべきだろう。戦前は大陸に進出することが得と考えたから戦争をしたし、戦後は戦争をすることは損だと考えたからしなくなった。そしてこの世俗性は歴史的なものである。仏教哲学者の中村元によれば、仏教は日本に伝来したときにその教義が変容した。日本では、死ねばすぐに(修行抜きで)仏になるとか、即身成仏などといった、極めて世俗的な思想に加工されて仏教が受け入れられた。日本人は万葉集の時代から、いまを楽しく生きることが大事であった。
日本の原理は、「空気=世間」と「水=世俗」である。日本人の特徴として、世俗性(=損得勘定)が極めて強い。日本人はあまりに個人主義的だからこそ、共同体を維持するために強力な世間の拘束が必要であった。日本人は昔から世間が大嫌いで、個人の欲望を抑圧する権威を激しく憎んできた。日本人は御利益のある神と、自分に得となる権威しか認めなかった。日本をアメリカの属国にして欲しいとマッカーサーに手紙を書いたのは、それが得だと感じていたからであった。

・非西洋国の中で日本が唯一近代化を達成できた理由を、山本七平や小室直樹は勤労哲学に求めたが、ここでは日本人の世俗性と個人主義で考察する。
日本はアジア的農耕社会の中では血縁・地縁による縛りが緩く、イエ(会社や役所)を重視したので、縁故主義や贈収賄が少なく近代化に寄与した。血縁・地縁は社会保障システムとして世界ではよく見られるが、日本では生存するための共同体ではなかったので、近代化とともに消滅した。一人暮らし(ワンルームマンション)という形態は、日本で最も早く登場した。
近代化以降の日本の共同体は、血縁・地縁でなく、そのときたまたまその場で一緒になった人たちでつくられた(学校・軍隊・工場・会社)。ここでの人間関係は場に依存し、転勤などで疎遠になったりする。この強固な組織(イエ)は、血縁と地縁が失われた日本人の最後の共同体となった。(日本人男性は会社から離れると、所属する共同体がない。夫は会社コミュニティ、妻と子はママ友コミュニティ。)
日本では人間関係は場から生まれ、場が失われれば孤独となる。日本は本質的に無縁社会であった。

・小熊英二の「単一民族神話の起源」を読むと、開国を迫られた明治の知的エリートが、西洋への深い劣等感を抱いていたことがわかる。
グローバリズムには、経済面(自由貿易)と政治面(アメリカニズム)がある。自由貿易は、社会が分業化し比較優位を交換することで、世界が豊かになる手段である。自由貿易で世界中が豊かになれるという、グローバリズムはユートピア思想なのだ。(自由貿易を否定する人がいるが、江戸時代のように国内で藩ごとに関税をかけたら、日本はより豊かになるだろうか?)
ただしこのユートピアは、世界がひとつでお金とモノと人が自由に移動できる条件が必要だ。実際は、豊かな先進国が福祉水準を守るために移民を制限している。
自由貿易の是非が感情的な対立を招くのは、正義の問題にかかわるからだ。グローバルな正義とローカルな正義が衝突し、グローバルな正義はアメリカニズムとみなされるので、議論は親米と反米に帰着する。

・地中海沿岸の文明では交易が盛んで、宗教と言語、習俗が異なる民族が混在した。無益な殺し合いを避けるグローバルな基準が必要とされる土地で、ロゴスとキリスト教というイノベーションが生み出された
退出不可能な農耕社会の原則は全員一致であったが、退出が自由であった交易社会の古代ギリシアでは多数決の民主制が確立していた(参政権と兵役の義務)。自由民である共同体の構成員は自分の意志で、国家と神に忠誠を誓った。入退出が可能な社会であるから、民主制と弁論術が発達した。
古代の神はアニミズムと祖先が一体化し、民族ごとに固有であった。ユダヤ人は少数民族であったので、強大な民族を超越するため、絶対神を考え出した。これをキリストが、民族を超えた万人の神にした。キリスト教は民族を超えたグローバル宗教となった。
大航海時代に勃興したブルジョアは啓蒙思想を必要とし、自由と平等が神の掟となり、社会契約により国民国家が誕生するに至った。大航海時代のグローバリゼーションは資本主義を発展させ、科学技術は進展した。
ロゴスとキリスト教を土台に、大航海時代のグローバリゼーションにより近代化が始まった。近代の理念は、宗教や民族、文化を超越する普遍的な価値を持っていた。

・「俺たち」と「奴ら」という伝統的な正義では、グローバル世界は成り立たない(殺し合いになる)。近代的な正義は、契約遵守を絶対とする原理主義となる。
マイケル・サンデルによれば、正義には4つの立場がある。リベラリズム(平等)、リバタリアニズム(自由)、コミュニタリアニズム(共同体)、そして功利主義である。平等、自由、共同体については遺伝学的実感が伴うが、功利主義は感情にそぐわない。
アメリカの政治家は正義の原理に基づいて行動すべきとされているが、日本の政治家の正義は状況依存的である。社会が複雑化するとトレードオフな状況が生まれるが、ムラ社会的全員一致の原則ではトレードオフの問題を解決できない。近代的な政治制度では、全員が従うルールを決め、不利を被る人にあらかじめ取り決めた補償をすることになる。ムラ社会的全員一致をやめるには、ルール優先の政治か独裁者か、2つの方法しかない。

グローバル空間では、ローカルルールはグローバルスタンダードに対抗できない。あらゆる背景(人種・性別・宗教など)の人がいる空間では、誰もが公正なルール(グローバルスタンダード)に従わざるを得ない。
アメリカ企業の能力主義は、差別を除くためのものである。人種・宗教・年齢・性別で差をつけることが許されない、能力でしか差をつけることが許されないのだ。日本の人事制度は年齢と性別で選別するローカルルールだが、外国人が働くようになれば機能しなくなる。ローカルルールである日本式の人事制度や株式持ち合いなどは、グローバルスタンダードに太刀打ちできない。
マイケル・サンデルはコミュニタリアニズムについて、リベラルデモクラシーの枠内での伝統のみを許容する。アメリカの政治哲学では、リベラリズム、リバタリアニズム、コミュニタリアニズムすべてでリベラルデモクラシーを基盤としている。
アメリカ人は
①すべての人は生まれながらに平等な人権を持つ。
②すべての人には自己決定権が保障される。
③市民が国家権力を統制する。
というリベラルデモクラシーに、宗教的確信を抱いている
豊かになりたいという人間の欲望がグローバルな貨幣空間を拡大し、自由や平等という正義を求める人々がリベラルデモクラシーを拡張する。リベラルデモクラシーに代わる普遍的価値を人類が見い出さない限り、グローバル化した世界では、アメリカの道徳的権威がスタンダードであり続ける。

・太平洋戦争の責任が誰にあるのか、敗戦後、その責を負うべき者を日本社会は追及することはなかった。福島第一原発事故の責任が誰にあるのか、震災後、その責任の所在は追及されていない。
丸山眞男は1923年に発生した皇太子狙撃事件を例に、日本社会の責任の構造を分析した。日本では責任を問われる場合、極めて過酷な範囲の制限のない無限責任を負わされる。スケープゴートになったときの損害があまりにも大きいため、誰もが責任から逃れようとし、権限と責任が分離し、外部から権力の中心がわからなくなる。無限責任が日本を無責任社会にしたと論じた。

・日本の中世(戦国時代)に、イエを単位として土地の所有権を確定し、村人同士が助け合い監視し合う連帯責任制度が始まった。グラミン銀行の成功は、連帯責任がうまく助け合いの機能を発揮したためだった。
近代社会の原則は、法治と自己責任である。自由と自己責任は一組であり、責任の取り方は時代とともに、無限責任から連帯責任、そして自己責任へと移行した。
自己責任には法の絶対性が必要だが、日本は権限と責任が分離した無限責任の国である。しかし無限責任の組織では統治は機能しない。ガバナンスが機能するためには、権力構造が明らかにならなければならない(国民主権、株主主権)。
福島第一原発事故の責任がどこにもないのは、日本に近代的な責任が存在しないためだった。近代の原則から言えば、事業会社(東京電力)の責任は有限である(株主や債権者の責任は有限)。そしてあらかじめ巨大事故を想定し、事業会社が負担できない損害を賠償するルールが必要だった。しかし日本政府は巨大事故を想定し責任を考えることはやめ、無限責任を事業会社に押し付けた(原子力損害賠償法では事業会社が無限責任を負う)。だがそのような無限責任は、そもそも事業会社が負えるものではない。こうして原発事故の責任はどこにもなくなってしまった。
法治のない社会で自己責任が取られず、責任の所在が明らかでなくなれば、残るのは呪術的な無限責任のみである。東京電力の関係者ならば誰でも非難を浴びた(東京電力社員であることは、けがれを負っていることを意味した)。
統治のない社会には責任はない。戦争でも原発事故でも、日本では責任を追及しても空虚な中心があるのみである。

・ジェームズ・ブキャナンは、「政治家は当選のため有権者にお金をばらまき、官僚は権限を拡張するため予算を増大させ、有権者は実利を得られる投票行動をするので、民主制国家は債務の膨張を止められない」と考えた。
政治学者の飯尾潤は、日本の権力構造の特徴を、「官僚内閣制」「省庁代表制」「政府・与党二元体制」と表した。大臣は各省庁の利害を代表し、その合議体として内閣が構成される(官僚内閣制)。日本的官僚制では、政策は業界団体などの現場からの積み上げによってつくられる。官僚がさまざまな社会集団の利害を代弁する(省庁代表制)。しかし行政が複雑化すると、官僚内閣制と省庁代表制では合意形成ができず、危機に対処できなくなった。
また、与党の合意がない法案は閣議決定を行わないという不文律があった(政府・与党二元体制)。これにより政治家が行政に介入したが、その行動は国家全体の利益とは無関係だった。
民主党はこれらの変革をめざしたが、失敗した。官僚が立法権(内閣法制局の審査に通った法案しか提出できない)、司法権(法律の解釈を独占している)、予算の編成権を握っていたことが原因と考えられる。
官僚が国益でなく省益や局益を優先するのは、省庁が縦割りであるためで、それは公務員の人事制度に由来する。年功序列と終身雇用という日本的人事制度が、流動性の高い雇用制度に変わらない限り、官僚の性質が変わることはない。

・日本の戦後政治は、ムラ社会的な無限責任の無責任体制のまま高度経済成長を突き進み、経済成長の敗者には補助金を配って全員一致にまとめ上げてきた。高度成長以降の時代には機能しなくなったが、権限と責任が一致する近代的な統治はついに構築されず、何も決められず借金だけを増やし、失われた20年となった。
日本の経済システムは、野口悠紀雄によれば戦後も1940年体制(戦争遂行のために国家が経済を統制する体制)が継続していたこの体制の特徴は、生産力重視と自由競争の否定であった(行政指導の強化・企業の利潤を否定・株主の権利制限・間接金融の強化・終身雇用と年功序列・社会保障制度の整備・借家人や小作農の保護)。
新興国の成長期までは統制経済が有効だが、高度成長後の日本経済では、競争力のある少数の輸出産業と競争力のない大多数の国内産業に二極化した。弱い産業を国際競争から保護したため、価格は消費者に転嫁され国内の物価水準は高くなった。国内の割高な原材料費は製造業の海外移転を促し、産業は空洞化した。20年続くデフレは、輸入規制と秘密カルテルが生んだ内外価格差が解消する過程であった。
統制経済の最後の守旧派は、企業経営者と労働組合である。定年制の禁止、同一労働同一賃金、解雇規制の緩和がなされるべき改革だが、政治的には困難だ。
日本がグローバルスタンダードの国になるとしたら、それは国内に無視できないほど他者が存在するようになったときである。これまで日本社会は、他者をイエに包摂するか排除するかの二通りで秩序を維持してきた。主流派の文化に包摂できない他者の存在が圧倒的になれば、ローカルルールはグローバルスタンダードに移行する。

・アメリカはグローバル化による株と不動産の価格上昇で、好景気を続けてきた。しかし2000年代からは株価は上昇せず、不動産バブルは崩壊し、中間層は没落した。そしてこのような経済の停滞は、先進諸国に共通する。
サブプライムローン危機はFRBの利下げが原因であり、ユーロ債務危機は共通通貨の制度上の欠陥による。危機は市場ではなく、国家が生み出してきた。金融危機を回避しようと巨額の資金を国家が投じることで、次の金融危機を誘発してきた。国家がつくりだす問題を国家が解決しようとする試みは不毛である。

第二次大戦以降、国民国家は福祉国家をめざしたが、1980年代になるとその限界も明らかとなった。ネオリベラル(新自由主義)とネオコンサバティブ(新保守主義)は、反福祉国家の政治哲学として登場した。ネオリベは功利主義であり、イデオロギー的には中立である。
橋下徹はネオリベラルな政治家である。教育改革や行政改革には熱心だが、伝統や文化に思い入れはない。橋下は競争を重視すると同時に、100%の相続税を主張するような徹底した個人主義者でもある。日本人は、ネオリベ的な個人主義に親和性が高い。
ネオリベラルに対するオールドリベラル(旧左翼)の批判は、生活保護や健康保険・年金制度が事実上破綻していることにより、力を持たない。オールドリベラルや伝統主義者がローカルルールに基づきネオリベラルを攻撃しても、ネオリベは完璧に反撃できる。なぜなら、競争重視・小さな政府・法の支配というネオリベは、グローバルな思想であるからだ。またネオリベは功利主義であるため、建設的であるならどのような批判でも取り込むことができる
ネオリベラルを超える政治哲学は、国家の前提を超越するリバタリアニズム(自由原理主義)だけであろう。(ネオリベラルには前提に国家がある。シリコンバレーのサイバーリバタリアニズム信奉者には、国家は必要ない。)

・大金持ちはお金が増えても幸せを感じにくいが、有名人はもっと良い評判を得たいと思う(お金は限界効用が逓減するが、評判は逓増する)。豊かになりたいという欲望、もしくは貧しくなることへの恐怖が、資本主義を自己増殖させる。資本主義は、環境や資源といった外部の制約がかかるまで、止まることはない。
インターネットの特徴のひとつに、評判を可視化したことがある(サービスの評価、ネットオークションなど)。ここでは良い評判を集めることが目標となる。サイバースペースでは、アーキテクチャの設計方法により、参加者を道徳的にふるまうよう誘導することが可能だ。良い評価を集めるという評判経済が実名制のアーキテクチャとして設計できれば、貨幣より評判を重視する、グローバル資本主義を超えるポストモダンが到来するであろう。

自由と平等を求めた前期近代に対し、豊かさを実現した後期近代では関心は自分(の内面)へと向かった。自由・平等の達成と福祉国家の成立は、共同体を解体し社会を液状化した。共同体から解放された人々は、前期近代では学校や会社などの近代組織に組み込まれたが、後期近代では「自己らしさ」だけが拠り所となった。
自己らしさが唯一の価値となる社会は、自分を参照して自分の将来を選択するという再帰的構造を持つ。自分を探す再帰的近代は不安定であり、自己管理の必要性が説かれることとなる。
日本人は極めて世俗的で、権力や権威を憎み、超越者(絶対神)の存在しない社会をつくってきた。地縁・血縁を嫌う日本人は、その場でたまたま集まった人々で共同体(イエ)を築いたが、そのイエは個人を拘束する装置でもあった。
社会が変われなくても、退出不可能な閉鎖的なイエ(伽藍)を出て、出入り自由な空間(バザール)で生きることは、個人としては可能だ。哲学者のロバート・ノージックは、自立した個人として生きながらも、共同体から安全や帰属意識を得られる方法を考察した。それは国家を共同体ではなくフレームワーク(枠組み)とし、人々がその中で退出が可能な共同体を自由につくれる世界である。
世俗を抑えて伝統を重んじる伝統主義や、アングロサクソン的なグローバルスタンダード(これも現在の日本社会よりは伝統主義的傾向がある)に近づこうという主張も、明治維新から繰り返されてきた努力であった。
日本人はその特徴である世俗性を出発点とし、自己実現・自己表現を求める意志により、ノージックの「ユートピア」に到達できる。

 

書評

本書は2012年5月に出版され、私は発売後すぐに読みました。かなり面白かったのですが、世間ではほとんど話題にならなかったようです。今回、再度読んでみましたが興味深い内容が多く、もう少し読まれてもいいのではないかと思います。

第二次大戦や東日本大震災で起きたことは何なのか、日本人の特徴の何かが影響を及ぼしたのか、ずっと疑問でした(今でも謎だらけですが)。従来の日本人論と異なり、日本人の世俗性を強調する点は新鮮な発見でもあり、謎を解く手がかりにもなりました。

要旨が長くなりすぎましたが、本書を読んで疑問は少しすっきりしました。

集団主義や恥などの特徴は、日本に限らずアジア農村社会では普遍的である。農村は退出不可能な社会で、そこでは意思決定は妥協による全員一致となる。権限は属人的なものなので責任と一致せず、誰も責任をとらない。全員一致の原則では、複雑化した世界に対応できない。ローカルルールではグローバル化に対抗できない。日本には「他者」がいないのでグローバルスタンダードは受容されない。

日本人が世俗的であるというのは私も同意見ですが、これは戦略的な思考を遠ざける原因になるような気もします。世俗的である、損得勘定で判断する、いまが楽しければいいとなると、長期的な問題を目先の損得ではなく戦略的に考えることができなくなるように思われます。難しくてそんな先のことはわからない、いまがよければいいじゃない、となりそうです。戦略的思考を貴ばない傾向は日本人の欠点であり、社会的危機を招く一因ではないでしょうか。
(書評2014/06/05)

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