カテゴリー別アーカイブ: 社会

「僕たちが親より豊かになるのはもう不可能なのか」 リヴァ・フロイモビッチ(著)

 

今日より明日はよくなる。そう信じられる時代は終わったのか。28歳のウォールストリートジャーナル記者が書いたレポートです。

おすすめ

★★★★★☆☆☆☆☆

 

対象読者層

金融危機後の、若者の雇用や生活に関心がある人。

 

要約と注目ポイント

・金融緩和政策により株価は上昇し、シリコンバレーでは成功した若者がすでに億万長者となっている。だが多くの若者は、雇用、賃金、教育、住宅、結婚などに悩まされている。1976~2000年生まれのY世代は、アメリカンドリーム、中流階級の生活を実現できるのか。

・1980年代以降、アメリカでは社会保障や教育への支出が削減され、若者が豊かになれるチャンスは減った。2007年からの金融危機で、それは決定的になった。自らの努力次第で親より豊かになれるという、アメリカンドリームという価値観が消えかけている。

・高い学資ローンを払って大卒となっても、スキルを必要とする賃金の高い仕事に就くのは難しい。低賃金で不安定な非正規の仕事に就かざるをえず、キャリアを蓄積できない。住宅を持てないので独立できず、親と同居し結婚にも支障がある。Y世代の労働の機会が失われれば、長年にわたり生産性は低下する。経済は低成長となり、社会保障費は重くなる。

・この30年間で格差が拡大してきた。規制緩和が進み、社会保障や政府支出は削減された。教育の公的支援も削減され、高所得の家庭と低所得の家庭の子供で、学業成績や学歴の差は固定化した。アメリカの主力産業は、製造業からITと金融に移り、一部の企業幹部に富が集中した。グローバル化が進んだため、多くの労働者は、職が減り賃金が低くなった。

・政府はこれらの事態を改善する責任がある。

若者の間にも、貧困と格差が広がっています。アメリカンドリームは消えてしまったのか、若い新聞記者が、世界の若い世代を取材します。

 

若者たちの実例

・なかなか仕事に恵まれず、高額の学資ローンに圧迫され続ける、アメリカの若者たちの実例。

・金融危機後、緊縮財政と増税のため失業者があふれ、仕事に就けないヨーロッパの若者たちの実例。

・一時的な短期雇用や、無給で正規採用が約束されていないインターンシップを何回も繰り返すが、安定した職をえられない若者たちの実例。

・高度な教育を受けた若者が、職がないため外国へ移住していく、頭脳流出の実例。

・未来のない先進国ではなく、成長する新興国で生活する若者たちの実例。新興国にはチャンスがあるが、問題も多々ある。

・アメリカでは政治的な理由から、緊縮政策が採用されている。そのため経済は低迷し、若者は困窮している。

・高い学費の負担軽減や、教育格差是正、若者の就労支援に取り組む、アメリカ国内のさまざまな実例。

・Y世代は新しい時代に対応し、自分の人生や生活を常に見直し、改善し発展させていく努力をしている。柔軟に小さなビジネスをつくり、生き抜いている。

世界各地に存在する貧困と格差を、若者の姿を通して表現します。また、その解決に向けた努力も描いています。

 

書評

移民の子であり、若い新聞記者であるという著者の経歴が、本書の主張に表れているように感じました。社会的な不公正に怒る、リベラル派の若者の論調です。

若い記者が勢いで書いた本なので、若干つじつまが合わないところもあります。ヨーロッパの若者が絶望して、アメリカに移住したらどうにかなったという例があります。でもそのあとには、アメリカにはもうチャンスがないので外国に行く、という例が出てきます。

そこは置いておいて、本書の主張は。

グローバル資本主義、金融資本主義が行き過ぎた。規制緩和が進み、富裕層や高所得層に有利な法制度、税制度となった。教育支援や社会福祉、公共投資の予算は削減され、低所得層が教育を受けて職を得る機会が減少した。学費が高額化し、学資ローンの負担が重くなった。

現在の若者は安定的な職に就けず、このためキャリアを積めない。低所得のまま一生を送るおそれがある。家庭も持てないので、子供もつくれない。社会階層は固定化し、経済は低成長となり、少子高齢化で社会保障費だけが増え、閉塞した社会になる。この時代に若者だった人たちは、人生を無駄にしてしまう。政府は政策を転換すべき。

ざっとこのような内容です。

このような主張は、もっともだと思います。あるべき政策、正しい政策を考えたり、その実現のために活動するのもよいと思います。ただ問題は、自分が考える正しい政策が実現するとは限らないし、実現しても10年後、20年後では意味がないということです。極端に言えば、政策や制度が変わるかは、(自分が活動したとしても)他人任せです。

そのため、正しい政策を考えるのとは別に、自分が生き残る方法も探した方が良いでしょう。今の時代で生きのびるにはどう行動すべきか、本書でも最後に少し書かれていますが、いくつか考えてみました。

借金はなるべくしない。特に高額な学費、車、住宅などのローンについては熟考する。
借金とも関連するが、若いときは身軽にしておく。失業、転職、引越し、家族構成の変化は想定すべし。
社会制度に関心を持っておく。利用できる制度は使い、該当する補助や支援は受ける。
経済や産業を常に観察しておく。景気循環や、成長しそうな産業、衰退しそうな産業を見ておく。いつ雇用が増えたり減ったりするか、どの業種で仕事が増えたり減ったりするか、想定する。
技能を複数持つ。柱になるスキルのほか、他のスキルも持ちたい。趣味的なスキル、知識、人脈も助けになる可能性あり。
社会構造の変化が速いので、オープンマインドで。いろいろな人に会い、多様な考え方を取り込む。
失敗したら教訓を学ぶ。だが失敗しても、くよくよしない。しつこくがんばる。

こんな感じかと思うのですが、こんなにうまくできそうにありません。しかも、本書に登場する若者は、ほとんどが私より積極的に行動しており、学歴も高いです。そんな彼らでもうまくやっていけないなら、どうすればいいのでしょうか。

しかし、やはりアメリカです。最後の章では、それでも前向きに柔軟にチャレンジする、アメリカの若者たちが出てきます。小さなビジネスを立ち上げたり、効率的に社会活動を運営したり。このオープンで前向きにがんばる姿勢は、真似したいと思います。
(書評2015/10/10)

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「歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学」 マーク・ブキャナン(著)

 

複雑系に関する科学読み物です。私は特に金融の話(市場の暴落を予測できない)に興味があって読みました。話の展開は広く、山火事、大地震、進化、歴史と飽きさせません。

おすすめ

★★★★★★☆☆☆☆

 

対象読者層

複雑系科学に興味がある人。

 

要約

・歴史学では、時間をさかのぼって考察と解釈がなされる。第一次世界大戦の原因についてもさまざまに解釈されてきた。しかし1914年当時、第一次世界大戦勃発直前に破局を予測できた歴史学者はいなかった。(ソ連の崩壊や、それに続く世界中での民族紛争も同様である。)
地震学では長い年月にわたり、非常な努力をもって地震予知に取り組んできたが全く成功していない。イエローストーン国立公園では時折山火事が発生し監視活動がとられているが、1998年の爆発的な山火事を防ぐことはできなかった。1987年のブラックマンデーでは、暴落を予測することもできなかったし、暴落の理由もわからなかった。
これらは何を意味しているのだろう?

・国際関係のネットワーク、地殻や森林の構造、投資家の期待や行動といったシステムの組織構造は、小さな衝撃がシステム全体に広がりうるようになっている。このような予測不可能な激変を起こす臨界状態の組織化は、この世界にはありふれたものとして存在する

・カオス理論は単純な予測不可能性を説明できる。複雑性の概念は、平衡状態にない臨界状態で起こる激変を扱う。そしてこの世界は、成り立ってきた歴史を調べなければ理解できないと認識されるようになってきた。(雪の結晶は、凝結し成長してきた歴史を追跡しなければ説明できない。)今起こっていること、今その場所にあるという事実は、決して消え去ることなく未来全体に影響を与え続ける。

・地震が起こりやすい地域を知ることはできる。しかし地震に前兆はない。地震はマグニチュードが2倍になれば発生頻度は4分の1になるという、べき乗則に従う。べき乗則に従う世界では、典型的な(起こりやすい一般的な)ものは存在しない。大地震と微弱な地震との間に違いはない。大地震も微小な振動も同じように起こる。大地震に固有な原因はない。

自然界に見られるフラクタルは、成長や進化の過程で自然に現れる。ある偶然の出来事の上に偶然が付け加わって、成長や進化が積み重なる。ある偶然が起こるとその近くの偶然が起こりやすくなるが、この成長の仕方は不安定であらゆる些細な出来事に左右される。凍結された偶然の累積である歴史は、繰り返し実験しても決して同じにはならない。しかし似たような形になる。生じた複雑な構造は同じある予測可能な性質を持ち、べき乗則を満たす。偶然の裏に明白な規則的な過程があり、それは統計に現れる。

・科学者たちの研究により、地震発生過程のモデルをある程度は考えることができるようになった。地殻の断層の構造は、フラクタルの性質を持っている。臨界状態にある地殻で、ごくわずかな滑りが起こる。この滑りがどれほどの規模にまで広がるかは、ただはじめに滑った場所がどこかだけで決まる。微小な滑りがどこでいつ起こるかを予測することは不可能だろうし、地震の規模がどうなるかも実際に滑り始めなければわからない。
そして、フラクタルとべき乗則を背景とし、臨界状態を想定するこれらの地震をめぐる考察は、この世界の他の出来事を理解するのにも役立つのである。

・科学者たちは、さまざまな相転移の臨界状態の臨界値を調べるなかで、対象とする物体が存在する空間の物理的次元と物体の形状のみが重要であることを発見した。それ以外の詳細(質量や電荷や分子間相互作用)は、臨界状態の組織化には何ら影響を与えない。臨界状態では物体の物理的次元と基本的形状だけが重要であることを、臨界状態の普遍性という。
全ての物理的システムは、必ずいずれかの普遍性クラスに分類される。臨界状態の普遍性の特徴は、同じクラスに属する物体はそれが現実のものでも想像上のものでも、どれほど似ていないように見えても、正確に同じ臨界状態へと組織化することである。ひとつのクラスのあるシステムがとる臨界状態を理解できれば、そのクラスに含まれるすべてのシステムが理解できる。同じ普遍性クラスなら、とても大雑把なモデルでも現実のシステムの挙動と一致する。地震発生過程モデルがどれほど荒削りでも(岩石の性質や摩擦や断層の形状を完全に無視していても)、地殻の本質的な仕組みは理解できる。
臨界状態にあるシステムはどれも似たような組織構造を形成する。その組織構造はシステムの特有な詳細や要素からは生じず、より深遠な基本的幾何や論理構造から生じる。臨界状態にあるシステムは、システムが何物であるかに関係なく、その本質的な性質を理解できる。

・臨界状態を作り、保つには調整が必要である(核反応など)。しかし、みずから臨界状態へ発展することもある。このような自己組織的に臨界状態に至る場合、系が非常にゆっくりと平衡状態から逸脱することと、系が相互作用に支配されていることが調整として働くようである。
森林火災やバッタの大発生、麻疹の流行などは自己組織的臨界の例である。自己組織的臨界はべき乗則に従う。イエローストーン国立公園も臨界状態にあった。あらゆる小さな山火事を人為的に消したことで、臨界状態が超臨界状態となり、すさまじい大火災を発生させやすくした。

・地球の生物の歴史では、5回の大量絶滅があった。多くの生物学者は、継続的に起きる目立たない絶滅のほかに、特別な原因による特別な大量絶滅があったと考えてきた。しかし、絶滅した生物の科の数と経過した年数は、べき乗則を満たすことがわかってきた。
これは地球規模の生態系が臨界状態へと組織化されていること、通常の進化によってまれに大量絶滅が起きること、短期的な生態系だけでなく長期的な進化的振る舞いにも自己組織的臨界の性質があること、を暗示しているのかもしれない。ただし、生態系に外部から衝撃が加わることで、自己組織的臨界の状態になる研究もある。

・経済学者たちは、経済を誘導できるという信念を抱きながらも、経済予測を誤り続けてきた。効率的市場仮説によれば、株価は速やかに適切な価格に均衡する。構造的な脆弱性や基礎条件の変化がなければ、暴落は起きないはずだ。しかし市場は平衡状態にはない。株価変動の大きさとその頻度はべき乗則に従う。効率的市場仮説の仮定とは異なり、金融市場では人間には心理があり、相互に影響し合う。その相互作用は、スモールワールドのネットワーク(世界の全人口60億人の誰とでも6人の知り合いを介してつながれる)によるものなのかもしれない。

人間は自由意志に基づいて選択するが、集団行動は規則性をもつ。各個人が自由に移動するなかでの都市の成立過程や、各個人の所持する資産の分布に、べき乗則が現れる。

・歴史学者は、革命や戦争の前には、社会に不調和が蓄積していると考える傾向にある。トーマス・クーンは、パラダイムをまとめ上げて科学が進歩していくことを通常科学、学説間の矛盾など不調和が限界に達し、パラダイムが再構築されることを科学革命と呼んだ。
パラダイムを学説のネットワークと考えると、このネットワークの変化の性質を調べることは可能である。科学論文では、引用される回数とその論文の数はべき乗則に従う。これは、大規模な科学革命と小規模な科学革命には質的な差はないことを示しているようである。科学的知識のネットワークは臨界状態のようだ。しかし偉大な科学者は、自身の学説を大きな影響を及ぼせるような場所に置くことができるのだろう。

科学に限らず、あらゆる分野の人間活動において、相互作用するアイデアのネットワークがある。これらにも、臨界状態を表すべき乗則が見い出せるのではないか。
臨界状態はあるきっかけで崩壊するが、その崩壊は臨界状態直前の状態で止まる。科学でもパラダイムは、理論に歪みが生じ必要とされる最小限度だけ破壊され再構築される。システムは、現状を保とうという摩擦力を伴いながら内部の要素が相互作用するとき、臨界状態へと自己を組織化する。
政治的革命は、権力者の抑圧がありながらも、既存の機構がみずから作り出した状況のもたらす問題に、適切に対応できなくなったと広く認識されたときに起こる。戦争も、国家間の相互作用と各国家の国力の推移に歪みが生じ、解放される過程で発生すると考えられる。人口比の戦死者数と戦争の数との間には、べき乗則が成立する。社会構造は臨界状態へと組織化されやすく、戦争もべき乗則に従うのではないか。それならば、大戦争と小規模な紛争は始まり方に違いはない。

・偉人が歴史をつくるわけではない。社会システムの特有な組織構造が、大きな社会変動を引き起こす。歴史上の偉人は、大きな社会的な力の衝突する接点に存在するだけだ。歴史的な大事件の原因が臨界状態の組織構造にあるとすると、歴史では偶然性がきわめて強い力を持つということになる。我々の世界、そして歴史は、偶然と秩序が入り混じっているのだ。

 

書評

純粋に楽しく読めました。さすがにプロのサイエンスライターです。
「え?それってどういうこと?」とか、「これは何と関係するの?」などと興味を持続させながら最後まで読めました。私がべき乗則や、ネットワークの本を読んだことがないこともありますが。

システムが臨界状態にあるなら、非常に簡単な仮想モデルの結果が、現実世界と一致するというのは驚きです。地震も森林火災も生物種の絶滅も、感染症の広がりも金融市場も同じように議論できるとは。

本書を読みながら考えていたのは2点で、戦争と金融市場のことです。
第一次世界大戦の話から本書は始まるのですが、歴史学者の間でも原因について合意されることはありません。遅れて台頭してきたドイツと覇権国家であったイギリスの葛藤に、周辺国家の国際関係が絡み合っていました。各国の国内政治状況も影響したのでしょう。歴史を動かす原因は何かという疑問は、21世紀の不安定な国際情勢を背景にすると気になるところです。

筆者は歴史の展開が予測できたり、個人の力で歴史を変えたりという議論には否定的です。偶然性が重要であることには私も同意します。しかし話は結構飛んで、人間の社会システムが臨界状態へ組織化されやすいなら、奥深くに統計的な規則性が発見できるかも、となります。そこまでくるとよくわからないので、ちょっと保留かなと思います。

金融市場については日頃から考えていることもあり、特に新しく感じることはなかったです。まあ本書とは関係ないですが、経済を予測したり誘導したりすることは人智を超えるような気がしますが、異例の金融緩和政策をとる各国中央銀行は自信をみせています。どういうところへ着地するやら。
(書評2014/07/23)

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「ヤンキー化する日本」 斎藤環(著)

 

前回の「ヤンキー経済」に続いてヤンキー批評です。前回はマーケティングの本でしたが、今回はヤンキー文化論です。ヤンキー概論および著者と6人の著名人との対談集になっています。

おすすめ

★★★★★☆☆☆☆☆

 

対象読者層

日本社会をヤンキーから考えてみたい人。

 

要約

・現代に生きる誰もが、ヤンキー文化のエッセンスを持っている。一般的にヤンキーは、周囲に威圧的で一目置かれたがる非行少年少女というイメージである。本書ではそれだけでなく、ヤンキーが体現している文化について論じるその特徴は、バッドセンスな装いや美学、立ったキャラとコミュ力、ノリと気合い、リアリズムとロマンティシズム、角栄的リアリズム、ポエムな美意識と女性性である。

バッドセンスとは、キッチュで傾いたセンスである。具体的には改造車やデコトラ、成人式の純白な羽織袴から、戦国武将の兜や博多祇園山笠の山車にまで通じる。

ヤンキーに親和性が高い人々はコミュ力が高く、キャラが立っている。お笑い芸人が典型的だが、島田紳助やエグザイルのHIRO、白洲次郎などにヤンキー性が認められる。日本社会では、地頭の良いキャラの立ったヤンキーは無敵である。キャラが立っているヤンキーは、キャラの相互確認という情報量の低い会話を永遠に続けることができる。この無限に続けられる会話(毛づくろい的コミュニケーション)こそ、最強のコミュ力となる。キャラとコミュ力は相互に補強する。

ヤンキー美学の特徴は、「アゲアゲのノリで気合いがあれば、まあなんとかなる」である。気合い(精神力)があれば、限界を超えられるというものである。冷静な分析や思索はなく、結果は問われることはなく、勢いや意気込みを重視する。日本人は全員、気合い主義と無縁ではない(誰でもがんばれと口にする)。気合い主義は、個人がその能力以上の力を所属する(中間)集団のために発揮することを求める。

ヤンキー文化は政治的に保守に親和性が高く、生存のために最適化された価値観である。また道徳性も含むため、秩序維持の力も持つ。思春期の反社会性はヤンキー文化に吸収され、一定の様式化を経て、絆や仲間そしてフェイクな伝統を重んじる保守へ至る。

ヤンキーは反知性主義だが、実利を重んじる現実主義者で実学志向でもある。彼らはポエムを好むが、夢は実現可能範囲内にとどめるリアリストなのだ。日本社会はヤンキー的価値観で大半が構成され、地頭の良いヤンキーがその中で覇者となり、再帰的にヤンキー文化が強化される。

・「俺の目標は、年寄りも孫も一緒に楽しく暮らせる世の中をつくること」と語ったという田中角栄は、最もヤンキー的な政治家である。知的に構築された理想に興味はなく、実利を気合いで追及する行動力。人間はホンネでぶつかればなんとかなる、というホンネ主義。ヤンキー的価値体系の構造を維持するための、表層的な変革志向。これらはヤンキー文化に基づくものである。

・ヤンキー文化は、「ホンネ」や「ありのまま」な相田みつをの詩と相性が良い。ヤンキーはポエムが好きだが、ポエムは知性や論理とは無関係に肯定的な感情をもたらし、共感を呼ぶ。ヤンキーは知性に基づく判断や行動を軽蔑し、自分の好きなことを気合いでアツくやるという感性に基づく行動を賛美する。ヤンキーポエムが内容空疎な名調子となるのは必然である。

ヤンキー文化の倫理感では、原理より関係性が優先される。関係性優位の集団は女性性であり、つながりや関係を志向するのは母性優位を示す。

・ヤンキーにとって真実を担保するのは常に行動であり、気合いやノリといった身体性に依拠する。ヤンキーが重視するのは個人ではなく家族や地元仲間といった中間集団であり、そこは言葉がいらない阿吽の呼吸で通用する世界である。ヤンキーは思想が感覚可能な身体性を超えられないので革命は起こせず、関心領域が親密圏どまりなのでファシズムにも歯止めがかかると思われる。

・ヤンキーには歴史意識がなく、常に連続する今を生きており、あらゆる非日常を祭り的に消費する。

・アーティストの村上隆氏との対談。

・作家の溝口敦氏との対談。

・放送プロデューサーのデーブ・スペクター氏との対談。

・歴史学者の與那覇潤氏との対談。

・作家の海猫沢めろん氏との対談。

・建築家の隈研吾氏との対談。

 

書評

ヤンキーの定義は難しく、著者がかなり広くまでヤンキー性を認めているので、やや議論が散らばる印象はあります。ただヤンキー性を限定的に絞った考察では、かなり面白く読めました。

キャラが立つと、キャラの相互確認という無意味な会話を永遠に続けられコミュ力で優位となる。反知性で感性重視だが、実学志向なため地頭の良いヤンキーは成功者となれる。原理より関係性が優位で、結果より行動や意気込みが重要である。これらは日本社会にあるなと感じます。

ただヤンキーはアメリカが好きというような議論もされていますが、私の感覚ではヤンキーはやや反米ではないかと思います。ヤンキーはグローバルスタンダード的なことは嫌うでしょう。中国の台頭を考慮し、地政学的戦略論からリアリズムに徹した政策をとろうなどとも考えないと思われます。ヤンキーは、チェスや囲碁のように最終局面から逆算して、論理的に現在の政策を選択するなんてしないでしょう。

ヤンキー性は日本社会に根深くあるとは思いますが、日本だけにあるものかはわかりません。日本に独自の文化か、あるいは閉鎖的空間ならば世界中でみられる文化かどうか、もっと勉強してみようと思います。
(書評2014/06/22)

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「ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体」 原田曜平(著)

 

マイルドヤンキーとされる人たちの特徴を、冷たいマーケティングの視点でまとめた本です。

おすすめ

★★★★★☆☆☆☆☆

 

対象読者層

現在の若者の消費動向を知りたい人。

 

要約

従来型のヤンキー(不良)は減って、多くのヤンキーは見た目がおとなしくなり、中身もマイルドになった。ヤンキーは、ファッションがエグザイルのような少数の「残存ヤンキー」と、小中学校の学区程度の地域に留まる多数の「地元族」に分類される。

マイルドになったヤンキーは、上京志向ではなく地元志向であり、地元で強固な人間関係と生活基盤を築き、消費活動も比較的活発である。都心の高感度・高学歴層の若者は、ソーシャルネットワークのメンテナンス関連での社交消費が主となる。マイルドヤンキーは車や酒、タバコ、パチンコといったモノにもお金を使い、車で地元の大型ショッピングモールに仲間と遊びに行くことを好む。

マイルドヤンキーは特徴的な消費行動をとるので、本書ではこれについて考察する。彼らは優良な消費者となるので、新しくヒットする商品やサービスのヒントとなるであろう。

・地元族の地元愛は、郷土愛ではない。中学、高校、(大学、)社会人と年をとっても、いつものメンバーと同じ場所で同じ消費をする。現状維持で、人間関係もライフスタイルも変えない。郷土には特に関心や愛着はなく(全国共通の大型チェーンでの消費行動で満足)、あくまでも地元友達が重要。今、ここで築いている生活が重要であり、それは概ね満足できるものである。

・高校や大学は成績で選別されているから、中学や小学校の友達が最も仲の良い友達となる。地元族は地元を出ず、学生時代以降は積極的に交友関係を広げることはないので、同級生婚の傾向がある。実家に住んだり、結婚して実家のそばに家を建てるような例が多い。大人数でミニバンに乗りドライブして遊ぶような、「絆」を大切にする。新しい人間関係や新しい土地を避け、地元で生活し、地縁を維持するため地元で消費する。大型ショッピングモールを非常に好む。(イオンは夢の国。)2000年代に大型ショッピングモールが全国に浸透し、「何もない地方」から「ほどほど満足できる地方」になった。

ヤンキーの変遷。
①ヤンキー1.0(~1980年代)
ビー・バップ・ハイスクールや横浜銀蝿のイメージ。他者を高圧的に威嚇して自分の優位を認めさせる。大人社会への反抗。地元(縄張り)意識。
②ヤンキー2.0(1990年代~2000年代前半)
渋谷センター街のチーマーや池袋ウエストゲートパークのイメージ。ポケベル、PHSや携帯で遠距離の行動がとりやすくなり、実際に渋谷や池袋といった「中央」に出張る。カラーギャングのように、統一された集団に所属する例も。
③ヤンキー3.0(2000年代後半~)
マイルドヤンキー。ファストファッションやファーストフード、タダか廉価のITコンテンツが普及し、デフレカルチャーを満喫。地方でも欲しいものは手に入る。社会に閉塞感があり、大人への反抗意識も起きない。親などに束縛されている意識もないので、上京志向もなく地元と地元友達を愛する。

・マイルドヤンキーはITへの関心が弱くスキルも低い(あまりネットで情報収集しない)。また、人間関係を新規に開拓する意欲も低い(社交消費よりモノ消費の傾向)。昇進など成り上がろうという野心もあまりない

収入は、20代前半としては高めか低めに二極化する。とび職やキャバクラ店員など高めのケースでは、見栄やメンツといった方向での消費も多くなる。アルバイトやフリーターの収入は低めで、親と同居のケースもよくみられる。仲間と遊ぶ金をつくるため、学生のバイト代は高くなる場合もある。

趣味は飲酒やカラオケ、パチンコやパチスロ、車、ゲームセンターなど。ギャンブルとの親和性が高い。娯楽への支出は多い。喫煙率は高い。居酒屋ではビールはあまり飲まず(高いから)、焼酎のボトルは人気(宅飲み型)。

・意外にもアニメを趣味のひとつとすることもある。ヤンキーはキャラクター好きであることもアニメ好きの一因で、サンリオキャラクターやディズニーキャラクター、ワンピースなどは伝統的に好まれる。ほかに化物語、涼宮ハルヒの憂鬱、進撃の巨人、シュタインズ・ゲート、アニソンで残酷な天使のテーゼなど。

音楽ではエグザイルが圧倒的に支持されている(弟分として三代目J Soul Brothersと妹分としてE-Girls)。エグザイルの仲間・家族主義は、マイルドヤンキーの志向と一致する。ほかに西野カナ。安室奈美恵と浜崎あゆみは、残存ヤンキーに支持される。好む音楽も、だらだら地元友達と変わらず過ごす生活を反映(反町隆史「Forever」やKREVA「イッサイガッサイ」)。

同世代の若者と比較すれば、物欲はある。ブランド物は好き。車やバイクも買うが、デジタルガジェットは買わない。車は軽自動車も乗るがミニバンを好む。ミニバンを好むのは、大人数で快適に乗れるため。スマホは保有しているが、使いこなしているわけではない。ライン(やフェイスブック・ツイッターなどのSNS)は必須だが、あくまでも仲間内で使うのみ。

・ソーシャルメディアの理念は世界中のあらゆる階層の人とつながることだが、そのような使い方はエリート層の若者に限られる。マイルドヤンキーは、ソーシャルメディアを昔からの人間関係を密にする方向で使用するため、新しく人脈が広がることはない。

マイルドヤンキーは、仲間内の良好な友達付き合いを乱す行為を許さない。仲間の空気を良い状態に保つことは大切である。どんどん新しい世界へ進んでいくような、エリート層の大学生には共感できない。とにかく仲間内と共有する空間が心地よいので、車を好み電車には乗りたがらない。(電車は公共空間。数十分程度の乗車時間も耐えられない。)

・上昇志向の夢はあまり持たず、夢は結婚や幸せな家庭であり、現状維持できればよい。地元で結婚、地元で家庭を築き、地元友達やその家族(子供)と友達付き合いをし、平穏な生活を送ることを何よりも望む。経済成長が見込めない成熟社会となった日本で、マイルドヤンキーは地縁・血縁に回帰しているのかもしれない。成熟市場では、マイルドヤンキーは優秀な若年消費者である。

マイルドヤンキーを想定した、商品やサービス。
絆を確かめる消費が多くなる。ハズレを嫌がりすでに知っていることを好み、新しいことを知ろうとしたり欲しがったりしない。選択肢が多いことは苦痛で、安定を好む。現状を維持するための消費活動を行う。

高級ブランドの中古品をネット通販するアプリ。ITスキルが低いので、見栄えがよく使い勝手に優れるアプリであること。

周囲に恥ずかしくない子供服。結婚・子供願望が強いので、子供服にお金をかける。おしゃれ、かわいい、かっこいいもの。

習い事のマッチングサービス。子供にはお金をかけるが、収入は低めなので大金はかけられない。

ファミリーユースの大型ミニバン。初期投資額が低く、自分で改造していけるもの。

家族単位で行動できるもの。子供が同伴できる居酒屋。ニコイチ・サンコイチの親子おそろいファッションブランド。子供同伴(仲間家族同伴)のパック旅行。地元に建てる一軒家。

レジャー感満載の有名な観光地を、同行者と親睦を深めるためにする旅行。あるいはその疑似体験ができる娯楽。東京ディズニーランド(既知なものを好む)。

手軽なパッケージ化された非日常。ハロウィン。高級外車のカーシェアリング。

地元友達とくつろげる場所。格安レンタルルーム。複合アミューズメント施設のフードコート。格安運転代行サービス。

 

書評

マイルドヤンキーとはかけ離れた生活を送っている私ですが、そういうものかとなかなか勉強になりました。(ほとんど行かないですが)イオンやドンキホーテを訪れたときに抱く感覚と通底します。

本書はタイトルに新保守層の正体とありますが、思想的な分析はなく、あくまでマーケティングを主眼としています。内容に大きな驚きはありませんが、確かにこのクラスターの分析として納得できる部分が多いです。

個人的に全く理解できない点は、電車を嫌うことと地元愛です。

電車に乗らないのは電車が公共空間であり、車のように仲間内のくつろげる空間ではないことだそうですが、やはり理解できません。

もう一点の地元愛ですが、これはあくまでも地元友達愛であって、郷土愛ではないことに留意しなければなりません。個人的には、これまでの地元でこれまで通りの生活をこれまで通りの人間関係で過ごすことに、至上の価値を見出すことに違和感を覚えます。しかしそれ以外の生活を送ったことがなく、いまの生活にほどほど満足していればそうなるものと思われます。

戦後の高度経済成長期は、豊かになるために、そして自由になるために、日本人は上京し地縁を切り捨てました。そして上京した場で、たまたま出会った人々で共同体(学校・会社・工場)をつくってきました。橘玲氏は(日本人)で、その場でたまたまつくられた共同体だけが日本人にとって所属意識の拠り所となり、バブル経済崩壊後、そのような共同体が消失すれば日本人は無縁となるという事実を指摘しました。

この指摘はかなり正しいと私は感じますが、ではマイルドヤンキーの地元愛は何なのか。これはおそらく、小中学校の友達が、高度経済成長期におけるたまたま出会った場の共同体に相当するのではないでしょうか。成熟社会ではその人生最初の共同体がかなり安全で平穏で心地よいので、そこから出ようとせず外部に興味もなく、ひたすら閉じた人間関係のみに意識が向くためと思われます。

こう仮定すると、日本に低位安定の時代が続く限り、マイルドヤンキーは存在し続けるものと考えられます。彼らが閉じた狭い人間関係から出るのは、その空間では生存が保障されなくなったときかと思います。会社だけがアイデンティティであった中高年男性が、バブル崩壊により危機に陥ったように。
(書評2014/06/19)

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「(日本人)」 橘玲(著)

 

東日本大震災(福島第一原発事故)で起きたことは、日本人の何を表しているのか。和を尊ぶといった典型的な日本人論ではない、世俗性から見た日本人論です。

おすすめ

★★★★★★★☆☆☆

 

対象読者層

日本もしくは日本人について考えたい人。

 

要約

・東日本大震災において「日本人」について多く語られたが、それはひとことで言えば「苦境に耐え互いに支えあう美しい日本人」か「責任を逃れ利権に執着し権力にしがみつく醜い日本人」であった。だがこのような単純な構図は無意味である。
日本人は自身を特別と考えるが、何が特別なのか客観視するのは難しい。本書では、私たちからヒトとしての本性を引き算して残ったなにものかを、「日本人性」として考察する。

・世界各国の人々の価値観を比較したとき、日本が特異な結果を示した3つの特徴がある。国のために戦う意欲が低いこと、日本国民であることに誇りを感じる比率が低いこと、そして権威や権力を圧倒的に嫌っていることである。
グローバル化した世界では、国にできることはそれほどないのだが、私たちは「国家」や「国民」を強く意識しすぎている。本書のタイトルは日本人を括弧に入れたものだ。日本人を括弧に入れ、「国家」や「国民」という既存の枠組みから離れて、社会を理解すべきときだ。

・福島第一原発事故の記者会見において、原子力安全・保安院の審議官や東電職員が何度もほほえみを浮かべる場面があった。しかし、これは奇妙なことではない。ほほえみの国と呼ばれるタイでは、ほほえみに多くの意味付けがあり、ほほえみによって多様なコミュニケーションがなされる。
タイ社会でも、空気を読む、遠慮、気遣い、対立を避ける妥協、人脈、義理や恩義、面子などは極めて重要である。権限は地位や職階になく、個人の属性である(だから誰も責任をとらなくなる)。
私たちは「和」や「恥」や「建前と本音」といった特徴を、日本人特有のものと考えてきたが、これはアジアの農村社会ではありふれたものである。私たちがこれまで「日本的」と考えてきたことは、アジア世界では共通なものではないか。

社会には政治空間と貨幣空間が存在する。
政治空間は、愛情空間(家族・恋人)と友情空間(親しい友人および知り合い)からなり、その外側に貨幣空間(他人)がある。貨幣空間はお金でつながる無制限の範囲である。
人間関係において、最も重要で中心にあるのが愛情空間で、その次に重要なのが友情空間となる。人間関係では貨幣空間はとるにたらない。地理的関係では、愛情空間は非常に狭く、それを友情空間が取り囲んでいる。貨幣空間は広大である。

政治空間と貨幣空間ではルールが異なる。
政治空間のルールは統治の倫理であり、貨幣空間のルールは市場の倫理である。
統治の倫理では、目的のために欺く、復讐、排他的、規律、伝統、位階、忠誠、勇敢、名誉、運命を甘受する、といった行動規範が生まれる。
市場の倫理では、正直、契約の尊重、他者との協力、勤勉、節約、効率性、新規性、競争するが暴力は排除する、といった規範がみられる。

統治の倫理は生物の進化とともに40億年かけて刷り込まれた本能だが、市場の倫理は学習して身につけるたかだか5千年の文化だ。市場の倫理は人間の本能と対立し、交易によって市場全体の富が増えるという古典経済学はほとんどの人に理解されない。グローバル化は世界全体を豊かにする(南北格差の解消に向かう)が、国の中での格差は拡大させる。人間は自分が相対的に貧しくなることに耐えられない。
国の中で相対的に貧しくなること、また貨幣空間のドライな関係性が政治空間を侵食し孤独を感じること、これらの不満と不安に対抗するため、復古的な統治の倫理を持ち出そうとする人も現れる(藤原正彦「国家の品格」)。

エドワード・サイードは「オリエンタリズム」で、西洋人が自身を規定するために幻想としての東洋人をつくりだしたこと、また東洋人が幻想であるオリエンタリズムを通して自分たちを東洋人として認識するようになったことを明らかにした。これは近代化の過程にあった日本にも当てはまる(新渡戸稲造の「武士道」、ルース・ベネディクトの「菊と刀」)。その後も日本人の特殊性のイメージは、「甘えの構造」や「タテ社会の人間関係」などで強化されてきた。
明治期、西洋列強の帝国主義に対抗するため、「日本」文化を強調する人々がいた。西洋のオリエンタリズムにより武士道が創造されたが、(自分たちがつくり出した幻の)武士道によって西洋(市場原理主義)に対抗せよと(「国家の品格」のように)主張する人々がいる。明治維新以降ずっと、日本人は西洋の近代主義に対抗する思想を持ち得なかった。

・生物は進化の過程で、原因と結果を結び付ける因果律を身につけた。(物音がする→敵が来る、隠れろ!)人間の脳は因果律で理解する。
しかし世界の基本法則は複雑系であり、一部が確率論で記述され、さらにその一部が因果律で理解される。人間は複雑系や確率論の世界を理解できない。

・進化論的には、愛は生殖のためにつくられた感情である。進化論での最適戦略は、男は乱交(相手は多いほどよい)であり、女は純愛(子育てがあるのでパートナーを選ぶ)となる。
生き残り(自分の遺伝子を残す)戦略の結果、感情がつくられたり、生殖能力を最大化するような性質が生まれた。(老化や死を回避するより、若い生殖可能な時期を優先する。)

・ヒトには、幼少時に親しく接した異性との性交を生理的に嫌悪するプログラムがある(近親相姦の禁忌)。また旧石器時代より、女性は他の集団から奪うか交換するかしかなかった。
交換の互酬、そして女性を奪うための戦争やカニバリズムは人間の本能である(類人猿の観察や伝統的社会の食人の習慣)。ヒトは社会的な動物で、集団(俺たち)への帰属意識を持ち、外部(奴ら)を設定して戦い、資源を奪うようにプログラムされている。

・進化心理学によれば、こころはシミュレーション装置である。自分が相手の立場に立つことで相手の行動が予測できるようになり、集団内で生き残れる。この相手の立場を想像することが拡張され、アニミズムとなり、神が生み出された
全ての血縁集団が独自の神をもつようになったが、近代以前では超自然的な存在は、人々にとって実在した。(集団の全員が信じる共同幻想は現実化する。)

・ジャレド・ダイアモンドは「銃・病原菌・鉄」で、歴史や文明は地理的な初期条件の違いから生まれたとの仮説を立てた。ユーラシア大陸の温帯ベルトで農耕というイノベーションが起こり、農耕文明が発達した。
農耕文明の社会には、土地への執着(縄張り意識)と退出不可能性という特色がある。農耕社会では土地を守るので、閉鎖的な社会となる。また退出不可能な共同体の関係性は未来まで続くので、政治システムは妥協による全員一致になる。
退出可能性がない閉鎖社会では、身分が固定化し、また進歩という概念はみられない。これまで「日本人の特徴」と考えられてきたものは、人間の本性と農耕社会の特性としてほとんど説明できる。

・デフォルト戦略として、日本人はリスク回避的であり、アメリカ人は自己主張的である。
日本人は曖昧な状況ではリスク回避的な選択をするが、何をしてもよいとわかれば自己主張的な選択をする。アメリカ人は曖昧な状況では自己主張をするが、周囲への配慮が必要な状況ではリスク回避的となる。これは社会環境の違いが原因で、日本人は目立つとロクなことがないが、アメリカ人は自己主張しないと存在できないからである。
このようなデフォルト戦略は、日本人に特有なものだろうか。多くの心理学実験によれば、西洋人は分類学的規則の認識が得意で、東洋人(日本人・韓国人・中国人)は部分と全体の関係性や意味の共通性の認識が得意だった。西洋人の認知構造が世界を個に分類するものなのに対し、東洋人は世界をさまざまな出来事の関係として認識する。なお、この違いは遺伝によるものではなく文化的なものである。西洋人は個や論理を重視し、東洋人は集団や人間関係を重視する、と言える。

・1945年9月マッカーサーと昭和天皇が会見して以降、続々とGHQ宛に「拝啓マッカーサー元帥様」と書かれた手紙が日本国民から送られてきた。その数は50万通にも及ぶ。
山本七平の「空気の研究」は、実は「水=通常性の研究」と「日本的根本主義について」からなる三部作だった。ここでは山本七平とは異なる「水」を考える。
アメリカの政治学者ロナルド・イングルハートの各国民価値観調査によれば、日本人は極めて世俗的であり、自己表現志向もやや高めである。また、日本人はアメリカ・中国・韓国人と比較して、世間や家族の期待に応えようとする意欲は低く、自分の好きなことをしたいという個人主義的傾向を示す
戦前と戦後で日本人が変わったという考え方もあるが(岸田秀「ものぐさ精神分析」)、日本人は一貫して世俗的だったと考えるべきだろう。戦前は大陸に進出することが得と考えたから戦争をしたし、戦後は戦争をすることは損だと考えたからしなくなった。そしてこの世俗性は歴史的なものである。仏教哲学者の中村元によれば、仏教は日本に伝来したときにその教義が変容した。日本では、死ねばすぐに(修行抜きで)仏になるとか、即身成仏などといった、極めて世俗的な思想に加工されて仏教が受け入れられた。日本人は万葉集の時代から、いまを楽しく生きることが大事であった。
日本の原理は、「空気=世間」と「水=世俗」である。日本人の特徴として、世俗性(=損得勘定)が極めて強い。日本人はあまりに個人主義的だからこそ、共同体を維持するために強力な世間の拘束が必要であった。日本人は昔から世間が大嫌いで、個人の欲望を抑圧する権威を激しく憎んできた。日本人は御利益のある神と、自分に得となる権威しか認めなかった。日本をアメリカの属国にして欲しいとマッカーサーに手紙を書いたのは、それが得だと感じていたからであった。

・非西洋国の中で日本が唯一近代化を達成できた理由を、山本七平や小室直樹は勤労哲学に求めたが、ここでは日本人の世俗性と個人主義で考察する。
日本はアジア的農耕社会の中では血縁・地縁による縛りが緩く、イエ(会社や役所)を重視したので、縁故主義や贈収賄が少なく近代化に寄与した。血縁・地縁は社会保障システムとして世界ではよく見られるが、日本では生存するための共同体ではなかったので、近代化とともに消滅した。一人暮らし(ワンルームマンション)という形態は、日本で最も早く登場した。
近代化以降の日本の共同体は、血縁・地縁でなく、そのときたまたまその場で一緒になった人たちでつくられた(学校・軍隊・工場・会社)。ここでの人間関係は場に依存し、転勤などで疎遠になったりする。この強固な組織(イエ)は、血縁と地縁が失われた日本人の最後の共同体となった。(日本人男性は会社から離れると、所属する共同体がない。夫は会社コミュニティ、妻と子はママ友コミュニティ。)
日本では人間関係は場から生まれ、場が失われれば孤独となる。日本は本質的に無縁社会であった。

・小熊英二の「単一民族神話の起源」を読むと、開国を迫られた明治の知的エリートが、西洋への深い劣等感を抱いていたことがわかる。
グローバリズムには、経済面(自由貿易)と政治面(アメリカニズム)がある。自由貿易は、社会が分業化し比較優位を交換することで、世界が豊かになる手段である。自由貿易で世界中が豊かになれるという、グローバリズムはユートピア思想なのだ。(自由貿易を否定する人がいるが、江戸時代のように国内で藩ごとに関税をかけたら、日本はより豊かになるだろうか?)
ただしこのユートピアは、世界がひとつでお金とモノと人が自由に移動できる条件が必要だ。実際は、豊かな先進国が福祉水準を守るために移民を制限している。
自由貿易の是非が感情的な対立を招くのは、正義の問題にかかわるからだ。グローバルな正義とローカルな正義が衝突し、グローバルな正義はアメリカニズムとみなされるので、議論は親米と反米に帰着する。

・地中海沿岸の文明では交易が盛んで、宗教と言語、習俗が異なる民族が混在した。無益な殺し合いを避けるグローバルな基準が必要とされる土地で、ロゴスとキリスト教というイノベーションが生み出された
退出不可能な農耕社会の原則は全員一致であったが、退出が自由であった交易社会の古代ギリシアでは多数決の民主制が確立していた(参政権と兵役の義務)。自由民である共同体の構成員は自分の意志で、国家と神に忠誠を誓った。入退出が可能な社会であるから、民主制と弁論術が発達した。
古代の神はアニミズムと祖先が一体化し、民族ごとに固有であった。ユダヤ人は少数民族であったので、強大な民族を超越するため、絶対神を考え出した。これをキリストが、民族を超えた万人の神にした。キリスト教は民族を超えたグローバル宗教となった。
大航海時代に勃興したブルジョアは啓蒙思想を必要とし、自由と平等が神の掟となり、社会契約により国民国家が誕生するに至った。大航海時代のグローバリゼーションは資本主義を発展させ、科学技術は進展した。
ロゴスとキリスト教を土台に、大航海時代のグローバリゼーションにより近代化が始まった。近代の理念は、宗教や民族、文化を超越する普遍的な価値を持っていた。

・「俺たち」と「奴ら」という伝統的な正義では、グローバル世界は成り立たない(殺し合いになる)。近代的な正義は、契約遵守を絶対とする原理主義となる。
マイケル・サンデルによれば、正義には4つの立場がある。リベラリズム(平等)、リバタリアニズム(自由)、コミュニタリアニズム(共同体)、そして功利主義である。平等、自由、共同体については遺伝学的実感が伴うが、功利主義は感情にそぐわない。
アメリカの政治家は正義の原理に基づいて行動すべきとされているが、日本の政治家の正義は状況依存的である。社会が複雑化するとトレードオフな状況が生まれるが、ムラ社会的全員一致の原則ではトレードオフの問題を解決できない。近代的な政治制度では、全員が従うルールを決め、不利を被る人にあらかじめ取り決めた補償をすることになる。ムラ社会的全員一致をやめるには、ルール優先の政治か独裁者か、2つの方法しかない。

グローバル空間では、ローカルルールはグローバルスタンダードに対抗できない。あらゆる背景(人種・性別・宗教など)の人がいる空間では、誰もが公正なルール(グローバルスタンダード)に従わざるを得ない。
アメリカ企業の能力主義は、差別を除くためのものである。人種・宗教・年齢・性別で差をつけることが許されない、能力でしか差をつけることが許されないのだ。日本の人事制度は年齢と性別で選別するローカルルールだが、外国人が働くようになれば機能しなくなる。ローカルルールである日本式の人事制度や株式持ち合いなどは、グローバルスタンダードに太刀打ちできない。
マイケル・サンデルはコミュニタリアニズムについて、リベラルデモクラシーの枠内での伝統のみを許容する。アメリカの政治哲学では、リベラリズム、リバタリアニズム、コミュニタリアニズムすべてでリベラルデモクラシーを基盤としている。
アメリカ人は
①すべての人は生まれながらに平等な人権を持つ。
②すべての人には自己決定権が保障される。
③市民が国家権力を統制する。
というリベラルデモクラシーに、宗教的確信を抱いている
豊かになりたいという人間の欲望がグローバルな貨幣空間を拡大し、自由や平等という正義を求める人々がリベラルデモクラシーを拡張する。リベラルデモクラシーに代わる普遍的価値を人類が見い出さない限り、グローバル化した世界では、アメリカの道徳的権威がスタンダードであり続ける。

・太平洋戦争の責任が誰にあるのか、敗戦後、その責を負うべき者を日本社会は追及することはなかった。福島第一原発事故の責任が誰にあるのか、震災後、その責任の所在は追及されていない。
丸山眞男は1923年に発生した皇太子狙撃事件を例に、日本社会の責任の構造を分析した。日本では責任を問われる場合、極めて過酷な範囲の制限のない無限責任を負わされる。スケープゴートになったときの損害があまりにも大きいため、誰もが責任から逃れようとし、権限と責任が分離し、外部から権力の中心がわからなくなる。無限責任が日本を無責任社会にしたと論じた。

・日本の中世(戦国時代)に、イエを単位として土地の所有権を確定し、村人同士が助け合い監視し合う連帯責任制度が始まった。グラミン銀行の成功は、連帯責任がうまく助け合いの機能を発揮したためだった。
近代社会の原則は、法治と自己責任である。自由と自己責任は一組であり、責任の取り方は時代とともに、無限責任から連帯責任、そして自己責任へと移行した。
自己責任には法の絶対性が必要だが、日本は権限と責任が分離した無限責任の国である。しかし無限責任の組織では統治は機能しない。ガバナンスが機能するためには、権力構造が明らかにならなければならない(国民主権、株主主権)。
福島第一原発事故の責任がどこにもないのは、日本に近代的な責任が存在しないためだった。近代の原則から言えば、事業会社(東京電力)の責任は有限である(株主や債権者の責任は有限)。そしてあらかじめ巨大事故を想定し、事業会社が負担できない損害を賠償するルールが必要だった。しかし日本政府は巨大事故を想定し責任を考えることはやめ、無限責任を事業会社に押し付けた(原子力損害賠償法では事業会社が無限責任を負う)。だがそのような無限責任は、そもそも事業会社が負えるものではない。こうして原発事故の責任はどこにもなくなってしまった。
法治のない社会で自己責任が取られず、責任の所在が明らかでなくなれば、残るのは呪術的な無限責任のみである。東京電力の関係者ならば誰でも非難を浴びた(東京電力社員であることは、けがれを負っていることを意味した)。
統治のない社会には責任はない。戦争でも原発事故でも、日本では責任を追及しても空虚な中心があるのみである。

・ジェームズ・ブキャナンは、「政治家は当選のため有権者にお金をばらまき、官僚は権限を拡張するため予算を増大させ、有権者は実利を得られる投票行動をするので、民主制国家は債務の膨張を止められない」と考えた。
政治学者の飯尾潤は、日本の権力構造の特徴を、「官僚内閣制」「省庁代表制」「政府・与党二元体制」と表した。大臣は各省庁の利害を代表し、その合議体として内閣が構成される(官僚内閣制)。日本的官僚制では、政策は業界団体などの現場からの積み上げによってつくられる。官僚がさまざまな社会集団の利害を代弁する(省庁代表制)。しかし行政が複雑化すると、官僚内閣制と省庁代表制では合意形成ができず、危機に対処できなくなった。
また、与党の合意がない法案は閣議決定を行わないという不文律があった(政府・与党二元体制)。これにより政治家が行政に介入したが、その行動は国家全体の利益とは無関係だった。
民主党はこれらの変革をめざしたが、失敗した。官僚が立法権(内閣法制局の審査に通った法案しか提出できない)、司法権(法律の解釈を独占している)、予算の編成権を握っていたことが原因と考えられる。
官僚が国益でなく省益や局益を優先するのは、省庁が縦割りであるためで、それは公務員の人事制度に由来する。年功序列と終身雇用という日本的人事制度が、流動性の高い雇用制度に変わらない限り、官僚の性質が変わることはない。

・日本の戦後政治は、ムラ社会的な無限責任の無責任体制のまま高度経済成長を突き進み、経済成長の敗者には補助金を配って全員一致にまとめ上げてきた。高度成長以降の時代には機能しなくなったが、権限と責任が一致する近代的な統治はついに構築されず、何も決められず借金だけを増やし、失われた20年となった。
日本の経済システムは、野口悠紀雄によれば戦後も1940年体制(戦争遂行のために国家が経済を統制する体制)が継続していたこの体制の特徴は、生産力重視と自由競争の否定であった(行政指導の強化・企業の利潤を否定・株主の権利制限・間接金融の強化・終身雇用と年功序列・社会保障制度の整備・借家人や小作農の保護)。
新興国の成長期までは統制経済が有効だが、高度成長後の日本経済では、競争力のある少数の輸出産業と競争力のない大多数の国内産業に二極化した。弱い産業を国際競争から保護したため、価格は消費者に転嫁され国内の物価水準は高くなった。国内の割高な原材料費は製造業の海外移転を促し、産業は空洞化した。20年続くデフレは、輸入規制と秘密カルテルが生んだ内外価格差が解消する過程であった。
統制経済の最後の守旧派は、企業経営者と労働組合である。定年制の禁止、同一労働同一賃金、解雇規制の緩和がなされるべき改革だが、政治的には困難だ。
日本がグローバルスタンダードの国になるとしたら、それは国内に無視できないほど他者が存在するようになったときである。これまで日本社会は、他者をイエに包摂するか排除するかの二通りで秩序を維持してきた。主流派の文化に包摂できない他者の存在が圧倒的になれば、ローカルルールはグローバルスタンダードに移行する。

・アメリカはグローバル化による株と不動産の価格上昇で、好景気を続けてきた。しかし2000年代からは株価は上昇せず、不動産バブルは崩壊し、中間層は没落した。そしてこのような経済の停滞は、先進諸国に共通する。
サブプライムローン危機はFRBの利下げが原因であり、ユーロ債務危機は共通通貨の制度上の欠陥による。危機は市場ではなく、国家が生み出してきた。金融危機を回避しようと巨額の資金を国家が投じることで、次の金融危機を誘発してきた。国家がつくりだす問題を国家が解決しようとする試みは不毛である。

第二次大戦以降、国民国家は福祉国家をめざしたが、1980年代になるとその限界も明らかとなった。ネオリベラル(新自由主義)とネオコンサバティブ(新保守主義)は、反福祉国家の政治哲学として登場した。ネオリベは功利主義であり、イデオロギー的には中立である。
橋下徹はネオリベラルな政治家である。教育改革や行政改革には熱心だが、伝統や文化に思い入れはない。橋下は競争を重視すると同時に、100%の相続税を主張するような徹底した個人主義者でもある。日本人は、ネオリベ的な個人主義に親和性が高い。
ネオリベラルに対するオールドリベラル(旧左翼)の批判は、生活保護や健康保険・年金制度が事実上破綻していることにより、力を持たない。オールドリベラルや伝統主義者がローカルルールに基づきネオリベラルを攻撃しても、ネオリベは完璧に反撃できる。なぜなら、競争重視・小さな政府・法の支配というネオリベは、グローバルな思想であるからだ。またネオリベは功利主義であるため、建設的であるならどのような批判でも取り込むことができる
ネオリベラルを超える政治哲学は、国家の前提を超越するリバタリアニズム(自由原理主義)だけであろう。(ネオリベラルには前提に国家がある。シリコンバレーのサイバーリバタリアニズム信奉者には、国家は必要ない。)

・大金持ちはお金が増えても幸せを感じにくいが、有名人はもっと良い評判を得たいと思う(お金は限界効用が逓減するが、評判は逓増する)。豊かになりたいという欲望、もしくは貧しくなることへの恐怖が、資本主義を自己増殖させる。資本主義は、環境や資源といった外部の制約がかかるまで、止まることはない。
インターネットの特徴のひとつに、評判を可視化したことがある(サービスの評価、ネットオークションなど)。ここでは良い評判を集めることが目標となる。サイバースペースでは、アーキテクチャの設計方法により、参加者を道徳的にふるまうよう誘導することが可能だ。良い評価を集めるという評判経済が実名制のアーキテクチャとして設計できれば、貨幣より評判を重視する、グローバル資本主義を超えるポストモダンが到来するであろう。

自由と平等を求めた前期近代に対し、豊かさを実現した後期近代では関心は自分(の内面)へと向かった。自由・平等の達成と福祉国家の成立は、共同体を解体し社会を液状化した。共同体から解放された人々は、前期近代では学校や会社などの近代組織に組み込まれたが、後期近代では「自己らしさ」だけが拠り所となった。
自己らしさが唯一の価値となる社会は、自分を参照して自分の将来を選択するという再帰的構造を持つ。自分を探す再帰的近代は不安定であり、自己管理の必要性が説かれることとなる。
日本人は極めて世俗的で、権力や権威を憎み、超越者(絶対神)の存在しない社会をつくってきた。地縁・血縁を嫌う日本人は、その場でたまたま集まった人々で共同体(イエ)を築いたが、そのイエは個人を拘束する装置でもあった。
社会が変われなくても、退出不可能な閉鎖的なイエ(伽藍)を出て、出入り自由な空間(バザール)で生きることは、個人としては可能だ。哲学者のロバート・ノージックは、自立した個人として生きながらも、共同体から安全や帰属意識を得られる方法を考察した。それは国家を共同体ではなくフレームワーク(枠組み)とし、人々がその中で退出が可能な共同体を自由につくれる世界である。
世俗を抑えて伝統を重んじる伝統主義や、アングロサクソン的なグローバルスタンダード(これも現在の日本社会よりは伝統主義的傾向がある)に近づこうという主張も、明治維新から繰り返されてきた努力であった。
日本人はその特徴である世俗性を出発点とし、自己実現・自己表現を求める意志により、ノージックの「ユートピア」に到達できる。

 

書評

本書は2012年5月に出版され、私は発売後すぐに読みました。かなり面白かったのですが、世間ではほとんど話題にならなかったようです。今回、再度読んでみましたが興味深い内容が多く、もう少し読まれてもいいのではないかと思います。

第二次大戦や東日本大震災で起きたことは何なのか、日本人の特徴の何かが影響を及ぼしたのか、ずっと疑問でした(今でも謎だらけですが)。従来の日本人論と異なり、日本人の世俗性を強調する点は新鮮な発見でもあり、謎を解く手がかりにもなりました。

要旨が長くなりすぎましたが、本書を読んで疑問は少しすっきりしました。

集団主義や恥などの特徴は、日本に限らずアジア農村社会では普遍的である。農村は退出不可能な社会で、そこでは意思決定は妥協による全員一致となる。権限は属人的なものなので責任と一致せず、誰も責任をとらない。全員一致の原則では、複雑化した世界に対応できない。ローカルルールではグローバル化に対抗できない。日本には「他者」がいないのでグローバルスタンダードは受容されない。

日本人が世俗的であるというのは私も同意見ですが、これは戦略的な思考を遠ざける原因になるような気もします。世俗的である、損得勘定で判断する、いまが楽しければいいとなると、長期的な問題を目先の損得ではなく戦略的に考えることができなくなるように思われます。難しくてそんな先のことはわからない、いまがよければいいじゃない、となりそうです。戦略的思考を貴ばない傾向は日本人の欠点であり、社会的危機を招く一因ではないでしょうか。
(書評2014/06/05)

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「日本人というリスク」 橘玲(著)

 

本書は、単行本「大震災の後で人生について語るということ」を加筆修正し、タイトルを改めて文庫化したものです。

おすすめ

★★★★★★☆☆☆☆

 

対象読者層

日本国内で日々働いてお金を稼ぎ、平凡に暮らしている市井の人。社会環境が将来、大きく変わったとき、平均的日本人が生きるにはどうすべきか考えたい人。

 

要約

・自分では管理できないほどのリスクを抱えたとき、人間は不安を覚える。現在の日本人と日本社会は、リスクへの耐性が低下している。

・複雑系のシステムでは、それぞれの要素が互いに影響し、予測は不可能である。(複雑系のシステムは、地震などの自然現象や、株式市場などの経済現象、生態系や生物個体など。)

・複雑系では、ときおりブラックスワンが現れる。ブラックスワンとは、前例がなく異常で、とても衝撃が大きく、かつ発生した後で想定できたはずとされる出来事。ブラックマンデーや9.11同時多発テロ、福島第一原子力発電所事故など。

・日本人の自殺率が高いのは、経済的に回復不能な状態(人並みの生活ができる希望がなくなる状態)へ陥る人が多いからである。

・日本人は、不動産、会社、円、国家という4つの神話を信じてきた。

・ローンで家を買うことは、レバレッジをかけて、現物不動産に一点集中投資することである。不動産価格が上昇していた時代はリスクが隠れていたが、現在はリスクがあると考えるべき。

・日本の大手企業は終身雇用制なので、就職した時点で生涯賃金(人的資本)が決定する。労働者は、キャリア終盤でその大半を得る(中高年での給与と退職金)ので、途中で退職するのは損である。しかし、会社は中高年社員に高い給与を払えなくなっており、しかも中高年はほとんど転職できない。中高年社員は一度失職すると、生きていけない。

・円高とデフレが継続してきたので、円預金(と日本国債)を持っていた人が最も得をした。円安の環境では、状況が逆転する。

・日本の高齢者のほとんどは、年金で生活している。年金は日本国に依存する。日本国の財政が信用を保持し続けるかは、予測できない。

・日本の会社は、閉鎖的な伽藍空間である。伽藍空間では、目立たず悪評を避けるのが生き残る方法である。

・バザールは開かれた空間であり、バザールでは目立って良い評判を集めることが生き残る道となる。

・今後は、日本の会社(伽藍空間)に人的資本すべてを預けるのは、ハイリスクな人生設計となる。会社外(バザール)でも通用する汎用的なスキルを蓄積し、良い評判を獲得する戦略を考える。

・金融資本を分散し、個人のリスクを国家のリスクから切り離せ。(これについては、「日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル」書評も参照してください。)

 

書評

本書は、著者がこれまでに述べてきたことを、大震災をきっかけに、新たに考察しまとめたものと位置づけられます。過去の著作を読んでいれば、要旨で大体わかっていただけるかと思います。初めての方や、詳しく知りたい方はお読みいただければと思います。

少し、本文より引用します。
「私がこころから残念に思うのは、この二十年間、日本政府がどうでもいいことに資金を垂れ流し、莫大な債務を積み重ね、いちばん大事なときに財政に余裕がなくなってしまったことです。国家の債務は公共事業や社会保障費として(平等ではないとしても)国民に配られたのですから、これは私たち一人ひとりの責任でもあります。」
「私があえてこのことを書いたのは、日本が変わるとしたら、これが最後の機会だからです。大震災と原発事故の悲惨な現実を目の前にしても、為政者も国民も変わる勇気を持てないとしたら、あとは伽藍の重みで自壊していくだけです。」

引用は以上です。上の言葉に、もう加えることはないように思われます。

東日本大震災は多くの人命を奪い、極めて甚大な被害をもたらしました。ただ、近い将来、これ以上の「いちばん大事なとき」が来ないとは言いきれません。私の思い過ごしであれば良いのですが。
(書評2013/05/05)

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